妄 想 空 想 葬 送 曲 |
The Blue |
静寂の森の中、舗装もされていない道を私は歩いている。 今はまだ早朝といえる時刻だった。それでも日は高く昇っている。眩しい日差しは木々の隙間から森へ降り注ぎ、見上げれば晴れ晴れとした空の青と、綿を千切ったような雲がまばらに見えた。よい天気だった。 剥き出しの土の上を歩くのは私は一人ではなかった。私の両脇を固めるように中年の男女が寄り添っている。私の両親だ。 二人はやや俯き加減に顔を下げ、無言で歩を進めている。一体どんな事を考えているのだろう。これから私に起こる事を知り、それを眼前に控え、どんな思いをしているのだろう。 昨今、この村には様々な不幸が起きた。殺人事件、原因不明の病、大規模な自然災害。それはどれも平和で穏やかだった村には似つかわしくないものだった。 村の老人達は畏怖した顔で口々に叫んだ。『龍神様がお怒りになったのじゃ』と。 龍神。この土地に古くから根付く神らしく、この村の老若男女が知り、信仰している土着の神だ。 老人達、いや、村の住人全てが龍神へ祈りを捧げた。怒りを鎮めてくれと。 だが人災は止まず、災害は止まず、病みは止まなかった。 それは祈りでは足りぬという龍神の意思だったのだろうか。少なくとも老人達はそう考えたようだった。 『贄を捧げよ』 老人達から発せられた言葉。それは実行される運びになり、贄は選出された。 古い因習に囚われた村だったのだ、ここは。 この村の古い歴史の中で、何度か贄は龍神の元へ捧げられていたようだった。と言っても、最も近い記録でさえ百年以上昔の話らしい。 贄に選ばれたのは一人の少女だった。 二年前のある日、村の入り口にぼんやりと立っていた、感情の起伏に乏しい身寄りのない少女――つまり私である。 二年前、私は何故ここにいるのかも分からず、村の入り口に立ち尽くしていた。その理由は今も分からない。今私の中にあるのはこの村に来てから二年間の記憶だけだ。だから今付き添ってくれているのは本当の両親ではない。 だが今の両親は身寄りの無い私を快く引き取ってくれた。彼らには子供が居なかったし、もしかしたら寂しかったのかもしれない。 両親は本当に良くしてくれた。きっと本当の両親もこのように接してくれるのだろうと私に思わせてくれた。その事に私は深く感謝している。だから今無言で歩く両親が今どんな気持ちでいるのか、私は少し気になった。 眼前の森が徐々に開け、湖が姿を現した。湖面は陽光を跳ね返し、きらきらと輝いている。龍神が住むと言われる湖だ。 湖は龍神が住むという言い伝えに相応しく、とても広大だった。深さも相当あるらしく、村の住人も滅多に近寄らない。 湖には中央辺りまで木製の桟橋が掛けられている。人二人が並んで歩けるくらいの幅だろうか。 私は桟橋へ足を掛けると、少しずつ歩を進めた。その後を両親が付き従うように続く。 こつ、こつと三人の靴が桟橋を叩き、不規則な靴音が響く。少し先には桟橋の終わりが見える。桟橋の終わり、それは同時に私の人生の終わりでもあった。私は贄として湖中へ沈められるのだから。 しかし特に恐怖は感じていなかったし、不条理さも感じていなかった。それは私の感情が乏しいせいだろうか。それどころか私が選ばれたのも何となく理解できる。突然現れた身寄りの無い部外者が選ばれるのは当然のような気もしたし、中には私が災厄を持ち込んだ、と言う人も居た。選ばれる要素は十分すぎる程揃っていたのだ。 程無くして私達は桟橋の先頭へ辿り着く。 桟橋の先頭部分はやや広く円形に作られている。そこにはまるで罪人が着ける様な、鎖で繋がれた鉄球が置かれていた。 私は桟橋の最先端まで移動すると、眼下に広がる湖へ目を向けた。蒼い湖の透明度恐ろしく高く、どこまでも見透かせそうな気がした。だが底は全く見えない。 私は湖の中央へ身体を向けたまま「お願いします」と言った。 「こっちを……向いてくれないか」 父の声がした。 「はい」 私は両親の方へ向き直った。 「では、いいね?」 父が問いかける。 「はい、お願いします」 そう言うと、父と母は傍らに置かれた鉄球の付いた枷を取り付け始めた。 爽やかな早朝の空気。それを構成するのは柔らかなモノ達だ。空の青。森の緑。湖の蒼。静寂の中響く鳥の鳴き声。そんな中に、ちゃり、ちゃりという鎖同士がぶつかる硬質で異質な音が混じる。 しばらくそんな音が響いた後、かちゃり、という音がした。枷に付いた錠に鍵が掛けられたのだ。当然の事のように枷は重く、これを付けて湖へ身を投じれば浮かび上がる事はまず無いだろう。 取り付ける作業が終わると二人は立ち上がり、視線を私へと向けた。 私は改めて両親を交互に見た。眼前にある父と母の顔。二人とも頭髪は白髪が大半を占め始め、顔には皺が刻まれている。もう二人とも初老と言える歳だった筈だ。先ほどまで無表情だった二人の顔には、いつの間にか何かを堪える様な表情が張り付いていた。よく見れば肩も僅かに震えている。 「ごめんね……こんな事になって」 堪え切れず、母が嗚咽する。 「いいえ。仕方の無い事だったんです。村の為なら、私は構いません」 「済まない。本当に」 父は涙こそ流さなかったものの言葉を詰まらせた。私はその表情と身体の震えから悲しみと悔しさのようなものを感じ取ることができた。 ああ、両親は私との別れを本当に悲しんでくれているのだ。それが分かると、私はこんな状況であるのに少し嬉しくなった。 「お父さん、お母さん、短い間でしたけど本当にありがとうございました」 「何を言うんだ。親が娘の世話をするのは当然の事だ。私達の方こそ……お前が居た二年間は本当に満たされた、楽しい日々だったよ。人生の中で最も輝かしい時期だった」 「そうよ、貴女は私達の娘なんだから。本当にありがとう。素敵な思い出をありがとう」 父が言い、母も続いた。 その言葉を聞き、どこか空虚に感じていた私の心が、何かで満たされていくのを感じた。 次の瞬間だった。 「あ、れ」 つう、と。 私は目から何かが零れ落ちるのを感じた。熱い、何か――。 ああ、これが。 涙。 「お父さん、お母さん、ありがとう。その想い、水底まで持って行きます」 「いって、らっしゃい」 言葉を詰まらせながら、少し引きつった声で父と母が言う。 その言葉を聞き、私は精一杯の笑顔を作り、そして――。 自らの身体を湖へと投げた。 水面を叩く大きな音がし、身体がゆるゆると沈んでいくのが分かった。 上手く笑顔を作れただろうか。私はその事がとても気にかかった。 湖面を見上げてももう両親の姿は見えない。 沈む私の身体とは反対に、沢山の泡が湖面へと昇ってゆく。外の世界から差し込む太陽の光は水の影響を受けゆらめき、水の蒼と融合し幻想的な世界を形成している。 ぼんやりとそんな光景を眺めていると、色々な思いが頭をよぎった。 走馬灯、という言葉を聞いたことがある。 人は死の淵に立つと、今までの人生の出来事を次々と思い出すのだそうだ。 今の私も、走馬灯というものを見ているのだろうか。 思い浮かんで来たのは両親との生活だった。 春。暖かい日差しの中、咲き乱れる桜のトンネルを三人で歩いたこと。 夏。焼けるような日差しの中、風鈴響く縁側で冷えた西瓜を三人で食べたこと。 秋。背の高いススキの原で、十五夜の月を三人で眺めたこと。 冬。一面の銀世界の中、かまくらやゆきだるまを三人で作ったこと。 三人で川の字になって寝たこと。朝の弱い私を父と母が必死になって起こしてくれたこと。 そんな何の変哲も無い日常さえ、私にとっては輝かしい思い出だった。 次に思い浮かんできたのは学校での思い出だった。 両親は私を学校へ通わせてくれたのだ。 その中で学校でよく話す……というよりよく声を掛けてくる男子生徒が居たのだ。 「よっ! 相変わらず眠そうな顔してんな!」 彼はいつもそんな風に声を掛けてきた。 その問い(というより彼にしてみれば挨拶のようなものだろうか)に、私はいつも「確かに眠いけど、眠くなくてもいつもこんな顔」というような返答をしていた。すると彼はいつも笑うのだ。「お前って面白い奴だな!」と。 彼は事あるごとに声を掛けてきた。どうも私の反応が面白いらしかった。 彼が投げかけてきた言葉達が思い浮かぶ。「起きてるか?」「おい、話聞いてたか? 寝てただろお前」「ほんとトロい奴だなお前」……。 何だか悪態を突かれてばかりな気がするが、気分を害した事は無かった。それどころか私はこのやり取りを楽しんですらいた。 彼の言葉から悪意は感じなかったし、必要が無ければ自分から話をしない私にとって、彼が話し掛けてくることは他人とコミュニケーションを取る唯一の手段だと言っても良かった。そして彼を通して同じクラスの人間とも話すことも出来た。 そんな彼との会話を繰り返すうち、私の心の中に小さな光が灯ったような気がする。 それは小さいけれど、心地よい暖かさを持った光だった。 好意を持っていたのだと思う。 それがいわゆる恋愛感情と呼ばれるものなのかは分からない。だが彼のお陰で学校が楽しいものになったのは確かだ。 両親。クラスメイト。私には勿体無いくらいの、かけがえの無い思い出たち。 だけど。 もう新しい思い出は生まれない。 湖の外での物語は、湖の中では紡がれない。 では湖の中で物語は紡がれる可能性は? 私は即座に否定した。そんな可能性はあり得ない。 蒼い水底で、他人の存在せぬこの世界で、そんなものが生まれる筈が無い。 ある日から突然途切れてしまった日記帳のように、その先の空白のページが埋まることは無いのだ。 そこで私はやっと気付いた。私は一人ぼっちになってしまったのだと。 ずしり、と。 まるで鈍器で殴られたような、重い重い痛みが心を襲った。 胸をかきむしりたくなる様な焦燥。それは私が今までで感じたことが無い大きな心の動きだった。 いつも小さい波が立つだけだった私の心という湖。だが今は嵐が訪れたかのように荒れた。その上に浮かぶ理性という小船も頼りなく揺れ、今や完全に制御を失っている。 寂しい。 寂しかった。気が狂いそうなほど寂しかった。 私は今になって気付いた。両親、クラスメイトの男子生徒。私の心がどれだけ彼らによって占められていたのかを。それが私の心の全てであったと言っても過言ではないという事に。 彼らを失った私の心はがらんどうだ。心から抜け落ちた彼らの存在は寂しさという鈍器になり、心を容赦なく叩き、壊そうとする。 気が狂う。気が狂ってしまいそうだった。 だがその苦しみももう間もなく終わる。私の死という終幕をもって。 こんな苦しみを、孤独を味わうくらいなら死んでしまった方がいい。そうすれば解放されるのだ。 幸か不幸か、私は死の淵へ沈んでいるのだから。 もう、あと少しもすれば私は――。 その時、私は違和感に気付いた。 苦しくない。 人は水中で酸素を取り込む事が出来ない。酸素が無ければ人は息絶える。当然だが人は水中に長く留まれば死ぬ筈なのだ。 ならば私は一体――。 その時、突然声がした。 それは聴覚を通して聞こえる声ではなく、頭に直接響くような声だった。 「おかえり」 もうこの水底に沈んでどのくらいの経ったのだろう。 暗い暗い水底。それは本当に墨一色の世界で、何も見えなかった。 だがこんな水底でも、太陽の光は僅かながら水底へ届く。そろそろ夜明けだった筈だ。 私の感覚は正しかったようで、徐々に太陽の光が水底へ差し込んでくる。 光は墨一色の世界を蒼い世界へと変色させ、水底にある物体を徐々に露にしてゆく。 私の周りには幾つかの影があった。 少しずつ強くなる光は、影達の姿を徐々に色づかせてゆく。 その影は私にとってとても馴染み深い姿だった。 父。 母。 クラスメイトの男子生徒。 彼らは水草のようなもので身体を巻かれ、私の近くへ寄り添っている。 遠くへ目を向けると、同じように水草に身体を巻かれた村の住人達が見える。 皮肉なことに、私はこの湖に身を投じてから、よく自分から話しかけるようになった。 いつもと同じように私は三人に話しかける。 「ねえ、寂しいよ。お話したいよ」 とある地方新聞より。 ○○村、突然の水没。ずさんなダム建設工事が原因か。 〜中略〜 ――奇跡的に生き延びた村の住人は次のように話している。 「水が……まるで生き物みたいに……人をさらうみたいに襲ってきたんだ」 ―了― HomE |